詳しいゆらい
賀茂神社のゆらい
1350余年前、天智天皇は大陸の影響を受け、国内にも馬を増やし、強い馬を育てるため、牧場を建設することとなり、この地に日本初の国営牧場を築き、馬の調教と繁殖に力を注がれ、日本の馬の文化がはじまりました。
この地は琵琶湖にほど近く、船の輸送の利便性が良く、更に高台になっているため、馬の牧場には適しておりました。多くの馬たちが、ここで生まれ、育てられていたようであります。
時は移り、奈良時代、天変地異が起こり、国土が危機的な状況でありました。時の聖武天皇は、この日本の荒廃を憂い、天変地異のない世を願い、国土の災厄を封じ、人々の幸せを願う神社を創建する為、吉備眞備(陰陽道の祖とも仰がれる)に命じ、陰陽道により、日本の「気」(エネルギー)の集まるところに神社を建てるため、天からの光が降り注ぎ、大地のエネルギーが集まっているとされる当地が選定され、更に陰陽道の技を尽くし、天平八年(七三六)、日本の「気」の集まる地(中心)に鬼門の方位に神社を向けて、災厄を封じ、そこに荘厳な社殿を造営し、賀茂大神を迎え、当社を創建になられました。
平安時代に入り、宮中で競馬会(競馬の最高のお祭り)が武徳殿の前庭で行われていたのを、京都上賀茂神社の馬場で行われ(賀茂競馬)るようになると、後白河上皇は、皇室の御領地でありましたこの地でもこの競馬が継承され(この御猟野乃杜賀茂神社では、古来から競馬は行われていた様でありますが)、宮中儀式としての古式の競馬行事の形を継承する為、行われるようになったのであります。(古文書にも記載されております)
1350余年もの馬との歴史を持つ土地柄と、全国的に極まれな「古式による競馬行事」が脈々と受け継がれ、全国的に見ても、馬の心と人の心の寄り集まった神社は当賀茂神社を除いて他にはないものと存じます。そのことから当社の事を人々は「馬の聖地」と呼ぶようになりました。
現在、約三万坪の森厳なる境内に直線400㍍の馬場があり、杜では四季を通じて花が咲き誇っています。
日本の「気」を受けられ、杜の中で霊威を戴き、大神様の導きを受けるためにも是非ともお詣り下さい。
広大無辺の賀茂大神様の御神威は、誠に高く、多岐にわたり、日本における「馬の聖地」、全国随一の「馬・馬事・競馬・乗馬」守護神、「方除・災難除・八方除・厄除」守護、縁結・子授・安産の神様・人生の進むべき道を示す神様として、近年では交通安全「車」守護として、あまねく国民の方々を守護されています。
創建当初は例祭「賀茂祭」には皇室より幣帛を賜る等、隆盛を極めておりましたが、度重なる兵火等により、縮小の一途を余儀なくされましたが、近年の崇敬の方々のお力添えにて、信仰厚き方々も増加し、日本国の繁栄と国民の平安を願った社としての心はよみがえりつつあります。
Wikipediaにも記載がございます。参照されます方はこちら。
創建当初は例祭「賀茂祭」には皇室より幣帛を賜る等、隆盛を極めておりましたが、度重なる兵火等により、縮小の一途を余儀なくされましたが、近年の崇敬の方々のお力添えにて、信仰厚き方々も増加し、日本国の繁栄と国民の平安を願った社としての心はよみがえりつつあります。
Wikipediaにも記載がございます。参照されます方はこちら。
境内スポット
上空より境内の全景をのぞむ
正面鳥居前からの境内全景です。
境内域は約三万坪あります。創建当初の奈良時代は、この辺りを御猟野と呼ばれていました。
これは、この地域が皇室の料地であり、馬の調教具合を試すために小動物を猟するための場所であったと言われています。
鳥居をくぐり、進んで行くと、左側には8本の杭が立っています。この杭は、馬をつなぐためのものであります。祭典の折には、ここに馬がつながれます。
更に進むと、段差があり、そこを中段と呼ばれています。そこには、連理眞榊、産霊社があり、その周囲を朱の玉垣で囲まれています。
連理眞榊を進みますと、3段の階段があり、そこを上がると境内の最上段です。左に見えるのが、神馬です。平成2年当時は、神馬としては、日本一の大きさでありました。現在はどうかわかりませんが…。
奥には拝殿・本殿が見えます。
正面の大きな木が御神木の神杉です。樹齢は約800年から1000年と言われています。
左奥には庚申堂、不動堂が見えています。そこを進んで行くと杜に入ります。